このビジネスは誰のため? 新興国の人々が「原点」に立ち返らせてくれた【前編】

  • 上場企業の社長に聞く! 夢とお金の本質・セイコーエプソン 碓井稔社長 / 碓井 稔

プリンター大手・セイコーエプソンが、従来のビジネスモデルを変革して快進撃を続けている。きっかけとなったのは、新興国で売上を伸ばす「エコタンク搭載プリンター」だ。碓井稔社長は、新興国の人々のニーズに真摯に向き合うことで、「ビジネスの原点に立ち返った」と話す。その思いと具体的なプロセスを聞いた。

業界の「常識」をひっくり返す

当社の「エコタンク搭載プリンター」を使ってくださっているんですか。これは大量に印刷するお客様向きで、印刷コストがとにかく安い。「安心してジャンジャン印刷できる」ことを売り文句にしていて、資料をたくさん使う方にぴったりですよ。

プリンターは当社の主力事業で、中でも用紙にインクを吹きつけて印刷するインクジェット方式を得意としています。この業界では、どの会社も「本体を安く売って、消耗品で稼ぐ」というビジネスモデルを採用しています。プリンターは安いけど、インクが入ったカートリッジが高くて、買い替えるたびに利益が出るというやり方です。

でも、これがお客様のニーズに沿っているかというと、首をかしげてしまう。お客様にとってみれば、プリンターが安く手に入っても、使う段階でお金がかかる。アンケートではいつも、「消耗品が高い」「インクカートリッジの買い替えが面倒」という不満が上位に来て、「インクを節約するためにプリントをがまんする」という声まで出ていました。これじゃあ一体、誰のためのビジネスなのか。本末転倒の状態が、業界の都合でずっと続いていたのです。

それを一変したのが、当社が開発した「エコタンク搭載プリンター」です。このプリンターは、従来のカートリッジよりもはるかに容量が大きい「エコタンク」を内蔵していて、その中にインクを溜められます。タンクが空になったら、たっぷりインクが入った別売のボトルから注入し、補充すればいい。

業界の常識を破った、エプソンのエコタンク搭載プリンター

これによって、インクの持ちが圧倒的に長くなりました。A4カラー文書なら、インクの交換なしで約5000ページも印刷できる。ランニングコストも従来のプリンターに比べて90%安い。こうなると、印刷業者に外注するのとコストが変わりません。いわば家庭やオフィスに、印刷工場を持つようなもの。お客様の不満を解消してあまりあるインパクトをもたらすのが、当社のエコタンク搭載プリンターなのです。

もちろん、消耗品で稼げなくなるのですから、本体価格を高くしないとビジネスが成り立ちません。従来のプリンターに比べて、エコタンク搭載プリンターは3倍ほど高い値段設定をしています。それでも、大量に印刷する方には圧倒的にお得です。

つまり、この商品はお客様にとっていいこと尽くし。それがわかっていても、一度できあがったビジネスモデルを変えるのは大変でした。お客様と日々接し、最前線でその声を聞いている営業部隊ですら、反対したのですから。本体価格を値上げしたら、売りづらくなる。従来通り、競合と同じものを売ってシェアを競い合っている方が、仕事がしやすいというわけ……。

確かに、これまで通りのビジネスモデルを続ける方が楽だし、リスクも小さい。当社はプリンターの売上が、全体の売上の半分近くを占めます。リスクを冒してまでその事業を変革する理由が、現場はなかなか理解できなかったのでしょう。

それでも、思い切ってエコタンク搭載モデルを出したのはなぜか。理由を話すには、10年前のインドネシアにさかのぼらなくてはいけません。

純正品を買わないとは、けしからん!

2000年代、当社の新興国でのプリンター事業は壁にぶち当たっていました。主に中国、インド、インドネシアで、当社のプリンターを買ったお客様が、カートリッジは他社の安い「互換品」や「模倣品」を使う現象が起きていたのです。安い本体ばかりが売れて、利益を出すためのカートリッジが売れないのでは、商売になりません。「本体(プリンター)を安く売って、消耗品(カートリッジ)で稼ぐ」というビジネスモデルが、新興国ではまったく通用しなかった。

「純正品を買わないとは、けしからん!」
当初は、互換品を阻止しようという意見が主流でした。販売店への手厚いリベート、法的措置。さまざまな対策が打たれましたが、効果がない。そのうち、「純正品が売れない地域には、進出しない方がいいのではないか」と、新興国でのビジネス自体がネガティブに捉えられるようになりました。

私が社長に就任した2008年度は、営業利益が赤字になるほど業績が悪化した年。待ったなしの状況で、将来性が見込めない事業を縮小し、次世代につながる研究開発に投資するという構造改革を行いました。そんな中、成長が見込めるはずの新興国での事業の行きづまりは、喫緊の課題でした。これは会社の未来のために、どうしても突破したかった。

安い互換品でなく、純正品のカートリッジを買ってほしい。でも、そう主張する前に「売れない理由」を考えてみただろうか。平均所得が低い新興国で、純正品のカートリッジは高すぎる。しょっちゅうインクが切れ、交換するたびに高いカートリッジを買わなければいけない。そんな商品に対する現地の人々の気持ちを想像すると、1つの疑問が湧き上がりました。

われわれは、新興国の人々のニーズに応えられていないのかもしれない――。

私は、現地のリサーチを指示しました。すると驚くことに、インドネシアでは現地のニーズを汲んで独自の製品が育っていた。ペットボトルにインクを入れて、当社のプリンターにつなぐ改造品が出回っていたのです。現地のメーカーがつくったこの商品は、ランニングコストが圧倒的に安い代わりに、故障が多い。販売店からは、「いっそのこと、同じものを作れないか」という提案までなされていました。

そう、エコタンク搭載プリンターの原型は、インドネシアの人々の「たくさん安く印刷したい」という、プリミティブなニーズから生まれたんです。おかげで、大事なことに気づかされました。新興国も先進国も関係なく、プリンターを買う人たちは同じニーズを抱いているはず。それなのに私たちが、既存のビジネスモデルを守り、競合とのシェア争いに勝つために汲々としているのはおかしいんじゃないか。

私たちの本来の仕事は、お客様のニーズに応えて、喜んでもらうこと。そこで私は、現地のニーズに従い、大容量のインクタンクを備えたプリンターを自社で開発すると決めました。

2010年10月、インドネシアでエコタンク(新興国での呼称は「インクタンク」)搭載プリンターを発売。「こんなに高いものが売れるのか」という声もあったけど、私は腹をくくりました。どちらにしても、新興国での戦略はうまくいっていない。それならエコタンク搭載プリンターで、現地の人々のニーズを満たせるように、努力するしかない。経営者として、この方向性に“賭けた”わけです。

いくら議論しても始まらない

ドラスティックに物事を変えるときは、議論しても始まりません。うまくいくか失敗するかは、やってみなくてはわからない。だからトップが決断したら、あとは思い切って実行し、結果を見せるだけ。いくら理屈を並べても、現場の社員の意識って変わらないんです。

発売当初、インドネシアでエコタンク搭載プリンターの売上は伸びませんでした。既存のカートリッジ式プリンターの販売台数を減らしたので、プリンター全体の売上が減り、「やっぱりダメか」という停滞した空気が漂いました。でも、ここで弱気になったら決断した意味がありません。

現地のユーザーから寄せられた声を元に改良を重ね、2012年には8機種を新しく投入。短期間で一気にラインナップを増やしました。既存のビジネスモデルを守りながら、ちょっとだけ試してみるという姿勢では、成果は出ません。やるなら、思い切ってやるしかない。

「改造品と違って壊れにくいから、結果として安く済む」「たくさん印刷できて、質がいい」。少しずつ、現地のお客様の間で評判が広まりはじめました。2012年から純正のエコタンク搭載プリンターへの買い替えが始まり、そこからの展開はあっという間でした。売上がどんどん伸び、2017年度までに、販売エリアは約150の国・地域に拡大。2018年6月には、世界累積販売台数が3000万台を突破。いまでは年間1000万台の売上が視野に入っています。

新興国でのエコタンク搭載プリンターの成功は、われわれに多くのことを教えてくれました。競合他社に勝つのは結果であって、目的じゃない。われわれの仕事はお客様のプリミティブなニーズに応えて、喜び、感動してもらうこと――。

新興国の人々が、私たちを「仕事の原点」に立ち返らせてくれたのです。