赤字の仏教書出版社を上場まで導いた、「定義づけ」の力【前編】

  • 上場企業の社長に聞く! 夢とお金の本質・鎌倉新書 清水祐孝会長 / 清水 祐孝

人生の締めくくりに向けた「終活」を、インターネットを使ってサポートする。そんなビジネスで業績を伸ばしているのが、鎌倉新書だ。清水祐孝会長は20代で家業を継ぎ、赤字の零細出版社を東証一部に上場するまで成長させた。きっかけは、事業を「情報加工業」と定義し直したこと。その思考プロセスからは、他の業種であっても多くのヒントが得られるだろう。

20代で、8000万の借金を負う

父が創業した「鎌倉新書」に入社したのは、1990年のこと。鎌倉新書は仏教に特化した出版社で、各宗派の教えを説く本や、仏具事典などを発行していました。書店に並ぶ一般向けの本ではなく、葬儀社や仏壇仏具店、石材店といった、供養業界向けの出版物がメインでした。

私は新卒で証券会社に4年勤めた後、父に呼び戻されます。社員4人の零細企業で、経営は決して良くないだろうと思っていましたが……。実際に決算書を見ると、予想以上でした。

実質、会社はつぶれかかっていた。年商4000万円に対して、その倍、8000万円くらいの借金があったのです。仏教書の売上は、かなり厳しいものでした。そのまま経営を続けても、借金は増えこそすれ、減ることはありません。

当時20代だった私は、家業に入っていきなり、「8000万円の借金を返し、会社を黒字にする」使命を背負わされたのです。「とんでもないことに巻き込まれた」と両親に文句を言いましたが、どうなるものでもない。頭をフル回転させ、必死になって打開策を考えるしか、生きる道はありませんでした。

でも、今思うとラッキーだったんですよ。もしこのとき、年商100億円で借金が200億円の会社を継いでいたら、どうなっていたか。200億円って、返せる気がしませんから。ビビって思考停止して、何もできなかったと思います。

逆に、順風満帆の会社を継いでいたら、どうなっていたか。これは割とよくあるのですが、親から業績の良い会社を継いだ人がそのまま同じことを続けて、40代、50代になってから会社が傾き出す。しかし、そのときには思考力も体力も落ちていて、自分で何とかする力がない。これは結構、悲惨だと思います。

8000万円の借金というのは、「がんばろう」と必死になれる、ちょうどいい額です。東京でちょっといい家を建てたら、このくらいかかりますよね。しかも当社の場合は、借金の多くが金融機関からの借り入れではなく、印刷会社などへの支払いの遅延でした。当時はまだ出版不況ではなく、取引先が待ってくださったので、時間に少し余裕が持てました。

20代の私にとって、この試練はハードすぎず、楽すぎず、ちょうどいいストレッチ(負荷)だったのです。おかげで120%の力を使い、成長できたことを考えると、借金を残してくれた親に感謝すべきかもしれません。

「顧客のお財布」までさかのぼって考える

再建にあたって、20代の私は何を考えたか。まず、仏教書の製作で葬儀社やお寺を訪ねるうちに、お葬式ってすごく大きなマーケットだと実感しました。当時は年間80万人くらいの方が亡くなっていて(直近の2017年は134万4000人)、お葬式には1回で約150万円ものお金が使われている。それだけで、年間1兆2000億円のマーケットになります。

さらに、仏壇の市場が4500億円、お墓が4000億円くらいあって、足すと2兆円。個人消費を対象にしたマーケットとしては、かなり大きい。まずはこのマーケットに対して、何かアプローチすべきだと考えました。

また、お客様である供養業界のお財布事情についても、考えました。例えば、仏教書を買っていただいたとき、お客様はそのお金を「図書出版費」に計上します。でも「図書出版費」って、たいていの会社ではかなり小さい予算なんです。事業にすぐ利益をもたらす、即効性がないですから。じゃあ金額が大きい予算は何かと考えたら、「宣伝広告費」と「販売促進費」です。

そこで、お客様が当社に払う予算を「図書出版費」から「宣伝広告費」や「販売促進費」に移すために、2つのことを実行しました。1つは、業界誌を作って広告を取ること。もう1つは、葬儀マナーなどをまとめた小冊子を売って、葬儀社やお寺が顧客に配る販促ツールとして使っていただくこと。

つまり、お客様の会社のどこにお金があるのかを見ながら、出版物の領域をシフトしたわけです。そのことで売上が増え、少しずつ借金を返すことができました。

しかしまだまだ、不安でした。業界誌は広告が取れましたが、それは属人的なつながりによるところが大きい。私が葬儀社の社長を訪ねて一杯飲んで、「業界は今こうなってます」「最近、あの社長さんが新しいことを始めました」と情報を提供する。その対価として、広告を出していただくというのがほとんどでした。つまり、個人の営業努力に依存した、持続性のないやり方だったのです。

まだまだ、ビジネスモデルとしては弱い。もう一歩進んで、自分たちが提供できる「価値の本質」を探らなければいけない。

切迫感を持ちながらそう考え続けて、あるときふと、「お客様がほしいのは印刷物に書いてある“情報”であって、印刷物そのものではない」と気がつきました。その途端、ビジネスを見る目が変わったのです。

新聞社は新聞で、テレビ局は電波に乗せて、やり方は違うけれどみんな“情報”を売っている。われわれの事業の原点は「情報を届けること」であって、業種の違いは「届け方の違い」でしかない。出版という上辺の形式にこだわらず、原点を見つめ直すべきではないか。

言ってしまえば、当たり前のことなのです。でも私にとっては、重い雲がスーッと消えて、視界がひらけたような感覚でした。「そうか、われわれがやるべきことは、集めた情報を、お客様が欲しい形に加工して売ることだ――」。

私の中ではっきりと、「情報加工業」というビジネスの定義が生まれました。

「情報加工業」という定義でもって世の中を見渡すと、異業種で同じことを考えている会社があることがわかります。セミナーやコンサルティングは、情報加工業の一種でしょう。そこで私は、業界誌を作るために集めた情報を、届け方の密度に応じて金額を設定し、売ることにしました。

広く浅く届けられる書籍だと、2千円。少人数のセミナーでさらに詳しくお話するなら2万円。個別にアレンジしてアドバイスまで行うコンサルティングなら、20万円。こんな風に付加価値をつけて、情報を売るのです。

定義づけをした途端、「何をやるべきか」が見えて、事業の幅が一気に広がりました。結果、情報を売る際の単価が上がり、売上を大きく伸ばすことができました。自分たちは何をして、何をしないのか。表面的な「出版事業」にとらわれず、ビジネスの本質を定義づけできたことが、その後の成否を決めたと思います。

ネット情報はお金にならない?

この定義に沿って考えると、インターネットは強い味方になります。届けたい情報を、少ないコストで一気に、大勢に拡散できるのですから。1990年代後半、インターネットが普及し始めたとき、私は「これだ!」と直感しました。

そこで、あちこちのセミナーに通い、インターネット・ビジネスについて勉強しました。当時のセミナーに来ていたのは、今は名だたる、IT起業家の第一世代。そうそうたるメンバーと机を並べて、私もインターネットへの参入を決意しました。

まずは雑誌のコンテンツをウェブにも展開しようと、2000年に「いい葬儀」というサイトを作りました。数珠の持ち方や、お焼香といった葬儀マナーなど、一般の方向けの情報をサイト上に公開したのです。続けて「いいお墓」「いい仏壇」とサイトを増やし、コンテンツを掲載していきました。

サイトは順調に立ち上がりましたが、根本的な問題がありました。やってもやっても、お金にならないのです。同じ情報でも、小冊子なら葬儀社やお寺からお金をいただけたのに、ネット上では無料。これをどうマネタイズすれば良いのか、まったくわかりません。

悩みながらも、とにかくサイトの運営を続けました。売上がゼロのまま、3年、5年とあっという間に時間が過ぎていきます。その間、一緒に勉強していた仲間はどんどん羽ばたいていく。会社が上場するなどの活躍をニュースで知るたびに、歯がゆい思いをしました。そして、考えました。「確かにあの人は優秀だ。でも自分と、天と地ほどの差があるわけじゃない。一体何が違うんだろう」……。

そして気づいたのは、私と彼らを分けるのは「能力」でも「アイデア」でもないということ。起業家たちは退路を断って、インターネットの未来に賭けている。一方、私は出版やセミナーで稼ぎながら、「インターネットもいい手段だな」くらいに考えていた。そんな意識でやっているのと、「ダメならもう人生アウト」という背水の陣でやっているのとでは、意識が決定的に違う。要するに、覚悟の問題なのではないか。

やるなら、本気でやろう。紙の出版からインターネットへ、大きく軸足を移そう。

ようやくそう思えたとき、会社である事件が起きました。出張中の私の携帯に、社員から電話がかかって来たのです。「社長! 社内が大変です。どうにかしてください」。私は慌てて、何が起きているのかを聞きました。出版部門とインターネット部門の社員が、取っ組み合いのケンカをしている――。一瞬、耳を疑いました。