第五講 説得せずに、納得させよう

自らの主張を、いかにして読者に受け入れてもらうか。これは文章を書くすべての人が考えなければならない問題です。「意地でも認めさせてやる!」という思いが高じると、その文章は強引な”説得”になり、無用な反発を招いてしまいます。ほんとうの意味で受け入れてほしいのなら、”説得”とは別のアプローチを考えましょう。
「第四講 起承転結をひっくり返せ!」を読む

なぜ日本史の授業はつまらないのか?

高校生のころ、いつも不思議に思っていることがありました。「どうして歴史小説はおもしろいのに、日本史の授業はこうもつまらないんだろう?」という疑問です。

日本史や世界史は、典型的な暗記科目です。覚えることが多いからつまらない。そう考えることはできます。しかし、歴史小説を読むのだって、登場人物はもちろん、時代背景から専門用語まで、覚えることはたくさんあります。脚注のない小説だと、自分で辞書を引いて調べなければなりません。人名や史実を覚える苦労でいえば、日本史の授業とさほど変わらないような気もします。
なのに、日本史や世界史の授業はおもしろくないし、苦痛ですらある。教師の問題なのか、教科書の問題なのか、それとも日本の教育制度そのものの問題なのか。よくわからないまま、ぼくは高校を卒業しました。

そして大人になり、ライターの仕事をはじめるようになってから、なんとなく答えがわかってきたような気がしています。歴史小説はおもしろいのに日本史の授業はつまらない、最大の理由。それは”説得”と”納得”というアプローチの違いなのです。

説得と納得はどこが違うのか

たとえば日本史の授業で徳川家康を学ぶとき、教科書はただ「これを覚えろ」「これを知っておけ」「こっちも忘れるな」と、一方的に知識を押しつけてきます。

せっかく徳川家康という最高におもしろいコンテンツがあるのに、読者をゲームに参加させることなく、ひたすら千本ノックをくり返す。読者は知識の球拾いを強いられる。これではおもしろくなりようがありません。

一方、家康を主人公とした歴史小説はどうでしょうか?
歴史小説には、千本ノックも球拾いもありません。読者は「物語」というゲームに参加しながら、自らの意志によって必要な知識(時代背景や登場人物、相関関係など)を学びとっていきます。
千本ノックのように押しつけられる知識と、読者自らが歩み寄って学んでいく知識。
前者が書き手による”説得”であるのに対して、後者は読者自身による”納得”となっています。
そして人は、誰かから説得されることを嫌う生き物なのです。

あるいは、こんな例もわかりやすいかもしれません。
携帯電話すらも使わないおじいさんに対して「パソコンは情報化社会において必須の知識です」「インターネットによって世界中の情報にアクセスできます」「パソコンを覚えないと時代に取り残されてしまいます」と脅迫的に語りかけること。
これは典型的な”説得”ですね。
説得を受けたおじいさんは、ほぼ間違いなく反発します。自分にそんなものはいらない、難しそうだから嫌だ、時代に取り残されるなんて大きなお世話だ、と拒否反応を示します。

一方、”納得”のアプローチではこう語りかけます。
「パソコンを覚えると、お孫さんと毎日テレビ電話でお話しすることができますよ」
孫という最大の関心事を持ち出して、自らパソコンのほうへと歩み寄ってもらう。おじいさんとパソコンという、本来なんの接点もない両者を、「孫」のひと言によって関連づけてしまう。この”関連づけ”こそ、納得のポイントなのです。

人は「正しさ」だけでは動かない

そもそも、どうして読者は”説得”に応じないのでしょうか?
自分の胸に手をあててみればわかります。説得される事柄とは「他人事」であり、基本的にぼくたちは、他人事には興味がないのです。

たとえどんなに立派な正論(英会話をやりなさい、資格を取りなさい、もっと本を読みなさい、など)であっても、それが自分にとって「他人事」であるうちは耳を貸そうとしないし、一方的な”説得”だとして反発する。これは人間のごく自然な態度です。
逆にいうと、ぼくたちは「これは他人事じゃない!」と感じたとき、ようやく耳を傾けるようになるのですし、自ら歩み寄っていきます。身を乗り出すか否かの境界線は、「当事者意識の有無」にかかっているといっても過言ではありません。

たとえば、ユニセフなどの慈善団体から「途上国の貧しい子どもを救うために愛の募金を」と呼びかけられても、なかなかピンとこないでしょう。遠いアフリカ大陸の出来事に当事者意識を持つのはむずかしいものです。募金できる金額も、せいぜい小銭レベルではないでしょうか。
「途上国の貧しい子どもを救うために愛の募金を」「アフリカの子どもたちを救おう」という主張は、正論です。ぐうの音も出ないほど正しく、立派な主張です。そうすべきだと、誰もが同意するでしょう。
にもかかわらず、ぼくたちの心は「正しい」だけでは動けないのです。いくら頭で「これは正論だ」と理解できても、肝心の”こころ”が動かない。
一般論を述べるばかりの文章がこころに響かない理由は、ここにあります。
主張のどこかに「これは他人事じゃない!」と思わせる要素が含まれていないと、われわれは動きません。当事者意識を芽生えさせ、他人事を「自分ごと」に変換してくれるフック、つまりは”関連づけ”が必要なのです。

「?」を「!」に変えること

人は「正しさ」だけでは動かない。ただ正論を述べるだけではなく、どこかで「これは他人事じゃない!」と思わせなければならない。当事者意識を持ってもらわなければならない。ここまでの話は理解していただけたと思います。
では、どうすれば読者に「他人事じゃない!」と思ってもらえるのでしょうか?

先に「知識の球拾い」という話をしました。
作者が鬼コーチとなって、千本ノックするような書き方ですね。これなどはまさに、正論を押しつける式の”説得”のアプローチになります。球拾いを喜ぶ読者はいません。

そうではなく、読者と一緒にキャッチボールをしてほしいのです。

読者が受け止めやすいボールを投げて、読者からもボールを投げ返してもらう。そして読者から投げられたボールを再び投げ返す。こうやってキャッチボールをくり返すことによって読者はプレイヤーとなり、その話題の当事者になってくれます。
となると、当然「どうすれば読者とキャッチボールできるんだ?」という話になりますよね? むずかしく考える必要はありません。じつは(というほどでもありませんが)、こうした疑問・質問とそれに対する解のやりとり自体がキャッチボールなのです。
つまり、書き手がなんらかの疑問や提案を投げかけ、読み手の人たちに考えてもらう。そして投げ返されてくるボールを受け止め、そこに対する自分の考えを投げ返す。わかりやすくいえば「Q&A」、もう少しカッコよくいえば「仮説と検証」のスタイルを挿入していくこと。それが読者とのキャッチボールであり、いちばん簡単な”関連づけ”だと思います。

もしお時間があるようでしたら、本講義を第一講からさかのぼって読み返してみてください。ざっと文字面を追いかけるだけでも、ぼくの文章には「何々だと思いませんか?」や「どうすればいいのでしょう?」など、けっこうな頻度で「?」の記号が登場していることに気づくはずです。さまざまなポイントで問いを投げかけ、ボールを投げる文章になっている。これは講義スタイルの文章だからではありません。ぼくは普段の原稿でも、かなり「?」を多用します。ただ読むだけでなく、一緒に考えてほしいのです。

ここで絶対に避けたいのは、読者に対していきなり「!」の剛速球を投げつけること。「これが答えだ!」と言わんばかりに”説得”の剛速球を投げても、読者は受け止めてくれません。
おもしろい文章には、かならず「?」のギモンがあり、それが「!」の解決に変わる瞬間があります。「?」が「!」に変わる瞬間こそが、読書の醍醐味であり、”納得”なのです。
自分の主張したい「!」があるのなら、その前にかならず「?」の要素を入れて、読者とのキャッチボールを成立させましょう。「!」のボールを投げるのは、そのあとなのです。

それでは今回のポイントをまとめておきましょう。

・”説得”から”納得”のアプローチへ
・人はただの正論では動かない
・他人事じゃないと思わせること
・読者とのキャッチボールを成立させよう
・「?」を投げてから「!」のボールを投げる

いいキャッチボールは、論理の基礎ができていないと、なかなか成立しないものです。キャッチボールのポイントは、読者が受け止めやすいボールを投げること。そのためには、しっかりとした論理が必要になります。論理的な文章の基礎を踏まえた上で、ぜひキャッチボール型の文章にチャレンジしてみてください。