第六講 読者と対話しながら書く

前回の講義では「説得から納得へ」という話のなかで、提案型の文章について紹介しました。読者に「?」を提案し、そこに「!」の解を与える、というスタイルです。そこで今回はもう一歩踏み込んで、より納得感を高める「対話を取り入れた文章」を紹介したいと思います。
「第五講 説得せずに、納得させよう」を読む

読ませる文章から対話する文章へ

たとえば、学校の授業。あるいは、何時間も続く講演会。

壇上の偉い人が一方的にしゃべっているのを聞いていると、だんだん眠くなってきますよね? 退屈してスマホをチェックしたり、こっそり居眠りしたり、なかにはノートパソコンを取り出して仕事を始めてしまう人もいるくらいです。

一方、質疑応答の時間になると、不思議と眠気は吹き飛びます。自分が質問するときはもちろん、他の人の質問も聞き逃すまいとするし、それに対して「先生」がどんな答えを返すのかも、かなり前のめりになって耳を傾けます。話そのものがおもしろくなるわけではありません。受動的な「講義」が、能動的な「対話」になるから、おもしろいのです。

文章だって、まったく同じです。だらだらと自説を述べるだけの文章を読まされるのは、誰にとってもつらいもの。そこに質疑応答のような、読者が参加できるような配慮がほんの少しあるだけで、「読む」という行為の能動性は急激にアップします。

では、いったいどうやって文章に「対話」の要素を盛り込み、読者たちに前のめりになってもらうのでしょうか?

読者に代わってツッコミを入れる

書き手と読者の「対話」をつくり出す、もっともシンプルな方法。それが今回ご紹介する「自分ツッコミ」になります。

別にむずかしい話ではありません。
自分の文章を読み返して、読者の目線でツッコミを入れる。そしてそのツッコミに対してちゃんと答えを用意する。読者の頭に浮かんだ「?」に対し、卓球のサーブを打ち返すように「!」の解をスマッシュする。
ここでのツッコミとは、多くの場合が「反論」ですし、それに対する答えは書き手からの「再反論」です。簡単な流れを見てみましょう。

(1)主張 高校では日本史を必修科目とすべきである
(2)反論 おそらく「国際化に対応するには世界史だ」との意見もあるだろう
(3)再反論 しかし、国際社会に出てから自国の歴史や文化を語れないことのほうが問題だ
(4)結論 今後ますます国際化が進むからこそ、日本史の教育が大切なのだ

ちょうど(2)の部分がツッコミですね。
ここで注目してもらいたいのは、文中にツッコミと再反論を加えることで、自らの主張が強化されることです。自分ツッコミとは、読者に対する「やさしさ」のようでありながら、同時に文章の「強さ」を高める作業でもあります。
もう少し本格的な構成だと、次のようになるでしょう。

(1)主張 高校では日本史を必修科目とすべきである
(2)理由 世界史が必修で、日本史が選択科目となっている現状はおかしい
(3)反論 おそらく「国際化に対応するには世界史だ」との意見もあるだろう
(4)再反論 しかし、国際社会に出てから自国の歴史や文化を語れないことのほうが問題だ
(5)事実 実際のところ、他の国々では自国の歴史教育に力を注いでいる
(6)結論 今後ますます国際化が進むからこそ、日本史の教育が大切なのだ

もちろん、この(3)反論と(4)再反論は、1回で終わらせなくてもかまいません。続けざまに「あるいはこんな意見もあるかもしれない」「しかし、それは〜なのだ」というように、数種類の反論に答えていくのもいいでしょう。

あまりくり返すと文章がしつこくなりますが、読者の疑問にしっかり答え、キャッチボールをするように反論と再反論を楽しんでみましょう。

ここで大切なのは、「読者が感じているであろうツッコミ」を敏感に察知し、的確に入れていく力。つまり、読者が「そう、まさにそれを聞きたかったんだよ!」と同意してくれるような反論を自分にぶつけ、そこに答えていく力。ひと言でいえば「読者目線」を忘れないこと。

われわれは文章を書くとき、ついつい「書き手の都合」で話を進めていこうとしてしまいます。ほかの道などありえないかのように論を運び、反論など存在しないかのように話をまとめ、読者を置き去りにしたまま結論を導き出そうとしてしまいます。しかもタチが悪いことに、そうやって自分が強引に論を展開していることにさえ、気づかないのです。

そこで文章を書くときには「なんにも知らない人がこれを読んだら、どんな疑問が浮かぶだろう?」とか「異性がこれを読んだらどう感じるだろう?」とか「自分の親世代がこれを読んだとき、どの言葉に引っかかるだろう?」とか、なるべく自分と遠い読者をイメージしながら、読み返すようにしましょう。そして「なにも知らない人からすると、こんな疑問が浮かぶかもしれないな」というポイントを発見したら、そこに「反論と再反論」を加えていくのです。

「小さなウソほど許されない」の法則

最後にもうひとつ。「対話」というテーマからは少し脱線しますが、読者の意外な反論から発展させて、「神は細部に宿る」の原則についてお話ししておきます。

たとえば、ゴジラが街にやってくる。
これはとてつもなく”大きなウソ”ですが、物語上なんら問題になりません。むしろ大歓迎な大ボラでしょう。
そしてゴジラに自衛隊が応戦するのですが、戦車や戦闘機の攻撃がいっさい効かず、すべてがはじき返される。これも冷静に考えれば「どんだけ皮が固いんだよ」という”中くらいのウソ”ですが、まあ許されるレベルでしょう。

ところが、ゴジラの攻撃から逃げる主人公が、倒壊したコンビニ前にある公衆電話を使って、妻や子どもたちの安否を確認する。
おもしろいことに、観客はこうした”小さなウソ”を許しません。

「いまどきコンビニの前に公衆電話なんか置いてねえよ」
「コンビニは壊れてるのに電話線は生きてんのかよ」
「ケータイ使うだろ、普通」
「この時代にテレフォンカード持ち歩いてるやつなんか見たことねーよ」
「いいから早く逃げろ」

などなど、容赦ないツッコミが入るし、物語のリアリティは一気にしぼんでしまいます。映画は、間違いなく駄作の烙印を押されるでしょう。

これはウルトラマンだって同じです。
ウルトラマンや怪獣の設定に多少の無理(大きなウソ)があっても、視聴者は文句をいいません。しかし、ウルトラ警備隊のユニフォームや火器、基地の描写などに不自然な点があると、視聴者の心は途端に興醒めしてしまうのです。

われわれが文章を書く上で心掛けなければならないのは、まさにここです。リアリティを演出しようとして追加したはずの細部に、ほんの少しでもおかしなところがあると、一気に色褪せてしまう。けれども細部を描かないことには、読者は納得してくれない。「大きなウソは許されるが、小さなウソは許されない」なのです。

ブログの文章にせよ、小論文にせよ、われわれは「大きな物語」を描くことにばかり目を奪われがちです。そうではなく、これからは「小さな細部」の描写にも、目を配るようにしましょう。

今回のポイントをまとめておきます。

・受動的な読書はつまらない
・文章のなかに「対話」の要素を持ち込む
・ツッコミとは対話の第一歩である
・読者に成り代わって自分の文章にツッコミを入れる
・「自分ツッコミ」への回答が、そのまま読者との対話になる
・読者は細部のウソを見逃さない

自分の文章にツッコミを入れていくには、それなりの客観性が必要です。自分の主張のどこにツッコミどころがあるのか、一歩引いた視点で判断できねばなりません。主観的になりがちな文章に客観性をもたらすためにも、ぜひ自分ツッコミの意識を持つようにしましょう。