「一銭もまけない」気持ちで不利な条件に対抗した【後編】

  • 上場企業の社長に聞く! 夢とお金の本質・コーエーテクモホールディングス 襟川恵子代表取締役会長 / 襟川 恵子

歴史シミュレーションゲームの金字塔「信長の野望」をはじめ、数々のヒット作を生み出してきたコーエーテクモHD。後編では、創業者である夫(襟川陽一社長)とともにゲーム史に残る数々のソフトを世に出してきた襟川恵子会長が、「いまだから言える」商売の苦労と、裏話を明かす。
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10代で投資。「株の女王」と呼ばれる

私は子どものころから、祖父母が株式投資をする姿を見て育ちました。祖父はかばんいっぱいに満州鉄道の株を持っていて、それが戦後紙くずになったとか、失敗もしたようです。でも高度成長期になってからは、相場全体が上がっていきましたから、祖母が「株で損する人はバカで、上がって売りたければ売る。下がったら上がるまで持っていれば良い」と言っていました。

私も自然と投資に興味がわいて、18歳のときに「株を買おう!」と証券会社に行きました。知っている今後有望な会社の名前を言ったら、「その会社は上場していないから、買えませんよ」と言われました(笑)。その後はきちんと勉強をして、あれこれ調べて買うと、みんな上がる。若いのに株で利益を出していたものですから、証券会社の人に「株の女王」なんて呼ばれて評判になりましたね。

私は母が一人っ子、そして父の兄にも子どもがいなかったので、いとこが一人もいないという状況でした。このため投資以外でも、子どもの頃から皆にちやほや可愛がられていました。たくさんお年玉をもらい、ほかにも掃除を手伝ったり、自分で作ったレース編みをあげたりすると、その頃では大金をお小遣いとしてもらえました。父が早世してからは、母に負担をかけたくないと思い、「大学に行くときの資金にしよう」と、そうして得たお金をこつこつ貯金していました。

後に、襟川(編集部註:創業者で、現社長。伝説的ゲームクリエイター)と結婚して事業を手伝っていく中で、貯金は何かと役に立ちました。コーエーテクモの前身である光栄は、最初からゲームソフトを作っていたわけではありません。1970年代は、襟川が家業であった染料の卸販売を継いで仕事をしていました。会社は光栄として新しく起業したので、運転資金や私の土地を担保にして仕入れをしたりとなにかとお金の持ち出しが多かったのです。染料は日本では斜陽になっていましたから、なかなか利益が出ない。そんなとき、襟川がマイコン(当時のパソコン)の存在を知って、「これからはマイコンの時代だ!」と言い始めたんですね。

当時、マイコンはサラリーマンの月給の3~4倍もする、それは高価なものでした。でも事業に役立つのであればと思い、襟川の30歳の誕生日に、マイコンを買ってプレゼントしました。襟川はとっても喜んで、プログラミングを覚えて業務用のソフトを作り、それがゲームの開発につながっていきました。1981年に最初のゲーム『川中島の合戦』が生まれ、その後に『信長の野望』『三國志』と大ヒットを立て続けに出し、会社がどんどん成長しました。ですから、しっかり貯めてあった貯金が大いに役立ちました。

当時、襟川社長にプレゼントしたマイコン(MZ-80C)

不利な条件は絶対にのまない

若いころにやっておいて、投資と同様に役立ったのが、アルバイトです。私が美大に通っていたころは学生運動が盛んで、ストライキがあって休校になっていました。時間があるので、デパートの催事場でディスプレイ台やポップをつくったり、テレビ局の仕事を請け負って絵を描いたり、いろんな仕事をしていましたね。

それらの仕事を通して、私はビジネスの慣習を知っていました。ですから、襟川がゲームをつくって売り始めたとき、業界の一般的な掛け率を聞いてびっくりしたんです。当時、ゲームメーカーの現場では学生のアルバイトが多くて、そんなにお金をかけずにつくっているソフトが多かった。一方、卸業の方たちはプロですから、少しでも安く仕入れたい。その結果、定価の20%以下とか、むちゃくちゃな掛け率でソフトが卸されていたのです。

そんなに不利な条件で、当社のソフトを卸したくない。そう思った私は、当時のゲーム業界の掛け率ではなく、適正と思われる掛け率を設定して譲りませんでした。卸業さんたちからは「高い」と言われましたが、「当社の条件で買っていただけるところが1社でもあれば、お付き合いします」と、私の設定した卸価格は押し通しました。定価の55~57%でしたから、私にとっての通常価格です。

当社初のゲームである『川中島の合戦』は、業者のおっしゃる価格が安すぎたので、卸業者に卸さずパソコン雑誌に広告を載せて、通信販売で直接お客さまに販売しました。するとゲームを楽しんだお客さまの間で、どんどん話題になる。ショップさんに「光栄のソフトを扱ってほしい」とたくさん声が寄せられるから、卸業者さんが当社に交渉に来る。でも私は、がんとして条件を譲りません。そのころ会社は足利にあったのですが、「足利の田舎に頑固な女がいて、言うことを聞かない」とうわさになっていたようです(笑)。

このことで、襟川とはずいぶんケンカをしましたね。襟川にしてみれば、自分がつくったゲームだからたくさんの人に売りたい。掛け率が低くても、大手からたくさん注文が来るとうれしいわけです。でも私は、いまここで安い価格で卸したらそれが実績となり、値上げできなくなりますので、設定価格を変えずに、どんどん広告を出しました。

そうしているうちに、「条件通りでいい」と言ってくれる、新興の卸業者さんがみつかったのです。待っていましたとばかりに、私は取引を始めました。ショップさんは「やっと光栄のソフトが買える」と、取引口座を開いてどんどん仕入れます。あっという間に、その会社がシェアを伸ばしていくのを見て、結局は他の卸業者さんも、当社の条件で買ってくださるようになりました。

値付けにも独自の根拠がある

ゲーム事業に参入してしばらくは、ヒト・モノ・カネのすべてが足りない状況でした。実績がないから銀行だって融資はしてくれませんし、常に自分たちより大きい会社との取引なので、とても苦労しました。資金・信用がない中で、どうやって商売を回していくか。自分の頭で知恵を出すことだけがすべてで、諦めたら終わりです。ですから必死に考えて、ビジネスの方法をゼロから構築しました。

一般的な商習慣など何の役にも立ちません。それをしようにもできないのです。また、商品の価格では、「非常識」と思われたことにも、私なりの根拠があります。例えば、1985年にパソコンゲーム『三國志』を1万4800円の値付けにしたとき、襟川をはじめ社員、卸業者さん、ショップさんのすべてから大反対されました。ソフトの相場は3000円でしたから、「いくら何でも高すぎる」「たかがゲーム一本1万円を超えるものなんて誰も買わない」と言われて……。

でもね、私は『三國志』の価値は、他のゲームソフトと比べるものではないと思ったんです。当時、多くの人が使用したワープロソフトは10万円ほどしました。安いものだと3万円、4万円で、すぐにバグが出るような粗悪品も流通していたのです。ワープロソフトは文字を打てるだけで、感性に訴える音楽や心をうつ感動というのはありません。それに比べて、『三國志』は、面白いシナリオがあり、生き生きとしたキャラクターや「三国志」の物語に基づいた武将のパラメータ設定や、マネジメントゲームなど、色々な要素が入っています。開発に理系と文系両方の技術力が必要で、お金も手間もかかる。

ワープロソフトが3万円でも売れるなら、襟川が丹精を込めて作った『三國志』がその半値で売れないわけがない。ゲームファンにとって、1万4800円は決して高くない額だと確信していました。

このときは、反対する襟川と離婚も辞さない覚悟で戦いました。そして1万4800円で販売し、ふたを開けてみたら、たくさんの方にお買い上げいただけました。

商売でいろいろな挑戦ができたのも、すべて「商品力」のおかげです。当社のソフトにしかない知的な思考ゲーム、キャラクターの魅力、没頭できる世界観。そういう差別化できる「商品力」があるからこそ、不利な条件や安売りに甘んずることなく、新しい方法を考えることができる。当社の商品にはそれだけの価値があるという自負が、私をここまで走らせてきたのだと思います。