中途半端なコンセプトはいらない! ジョイフルトレインを廃止した心意気【後編】

  • 上場企業の社長に聞く! 夢とお金の本質・JR九州 青柳俊彦社長 / 青柳 俊彦

2016年10月に悲願の東証1部上場を果たした、JR九州。JRグループの本州以外での上場はこれが初めてであり、人口減少・モータリゼーション化が進む地方のハンデを乗り越えての快挙だ。民営化以来、JR九州が歩んできた「挑戦の歴史」を振り返ってもらった。
失敗しなきゃ、成功もない。「一番風呂」を怖がるな!【前編】を読む

「お前、こんなところに何しに来た」

私がJR九州の前身である旧国鉄に入社したのは、1977年。若い方はご存知ないでしょうが、当時、国鉄のイメージというのは非常に悪かった。毎年の大赤字で運賃の値上げが続き、労使が敵対してストが頻発し、現場の士気も、落ちるところまで落ちていました。

「国鉄は、親方日の丸の無責任体質」などと、新聞やテレビでも批判されていた時代。そんなときになぜ入社したかと言うと、親から勧められて受けたら合格して、ふと行く気になったのです。

少し個人的な話をさせていただくと、私の祖父は戦時中、インドネシアで鉄道をひいていて、戦後はそのまま国鉄に勤めました。実家にあった茶ダンスに、水晶だとか珍しい石が入っていて、子どもながらに「これは何だろう」と思って見ていたんです。後で聞いたら、それは祖父がインドネシアから持ち帰ったものだと教えられました。

明治生まれの厳しい祖父で、私はいつも逃げ回っていたのですが(笑)、いまとなっては祖父の仕事というのは、気になりますね。インドネシアでどの鉄道をひいたのか正確にわからないのですが、死ぬまでに一度、調べて訪ねてみたいです。父は医者でしたが、勤務先は鉄道病院で、私も職場についていって入ったことが何度かありました。ですから鉄道には、不思議な縁があるのです。

そうはいっても、別に鉄道屋になりたいと思っていたわけではありません。東大の工学部を出て大学院に進学するつもりが落ちてしまい、親から留年はダメといわれたので、内定した国鉄に行くことにしました。入社してみたら、予想以上に現場は誇りを失っていました。職場に行ったら、先輩から「お前、こんなところに何しに来た」と言われて。とんでもないところに来たなあと思ったものです(笑)。

本州との「差」を思い知る

入社してからの10年で、あらゆる仕事を経験しました。まずは現場で鉄道の運転士や車掌、保線、公安官、車両検査の仕事もしました。見習いとはいえ、鉄道の仕組みや関わる人たちのことを理解し、後の仕事の土台になったと思います。途中でアメリカに留学させてもらい、その後は私が理系だったこともあり、日本原子力研究所で研究職に就きました。ちょうど、国鉄の分割民営化が決まったころで、「これで会社は変わるはずだ」と希望を抱きながらも、「せっかくの新会社設立の現場に、自分はいられないなあ」と思っていました。

分割民営化を4ヵ月後に控えた1986年12月、突然研究所から本社に呼び戻されました。分割された新会社の1つ、JR九州の経営準備室に配属されたのです。研究所からは「途中で研究を放り出した」と文句を言われましたが、やはりうれしかったですね。

準備室では、その後社長を務めた石原進(現・JR九州相談役)をリーダーとして、組織規程や権限の移行をどうするかなど、会社の根幹をつくる業務が日々行われていました。私はまだ30代前半でしたが、現場の経験は積んでいた。準備室の中では最も“使い勝手のいい”若手です。体力もあったし、いまこそ役に立つときだと思っていたので、それこそ夜も寝ないで働きました。

経営陣には「イチからの出直しだ」という空気がみなぎっていたし、荒廃していた現場にも、さすがに「これからは自分たちが働かなきゃ食っていけない」という覚悟が芽生え始めていました。ようやく自分たちの足で立ち上がるんだという、活気がありましたね。

しかし、九州の鉄道をめぐる状況は、決して明るくありません。どの地方もそうですが、住民のみなさんは鉄道よりも自動車やバスを使って移動します。ビジネスの需要が少なく、沿線に住む人々の高齢化・人口減少も進んでいます。

民営化してみると、首都圏の顧客を基盤に持つJR東日本や、東海道・山陽新幹線というビジネス客のドル箱を抱えるJR東海とJR西日本、いわゆる「JR本州3社」に比べて、地方は格段に差がありました。若手だった私ですら、「JR九州は、鉄道だけでは食っていけないな」と思ったほど。厳しい現実です。

ですから当時は、東京に出張に行くとうらやましくて仕方ありませんでした。昼間から山のように人が歩いていて、「ここで商売して、失敗するほうが難しいよな」と皮肉な気持ちがわいてきました。それに引き替え、当時の博多駅はガラガラで、全然人が歩いていない。まあ、だからこそJR九州は知恵を絞り、鍛えられたのですが。

苦しいときこそ、思い切ることが大事

民営化した当時のJR九州には、もう1つ大きな課題がありました。社員の「食い扶持」が足りないのです。分割された旧国鉄のうち、JR九州発足時の社員は、1万5000人。鉄道業務の雇用は1万2000人分だったので、残り3000人が働き、稼ぐ場が必要でした。

そこで挑戦したのが、鉄道以外のビジネスへの参入です。駅ビルやホテル、マンションの経営、うどん屋、パン屋、居酒屋といった飲食店、宅配便取り次ぎサービスから、きのこ栽培まで……。「ダボハゼ商売」と揶揄されながらも果敢に挑戦し、失敗を重ねながら業績を伸ばした経緯は、前回お話した通りです。

鉄道事業そのものも、苦しい状況だったからこそ、思い切ったチャレンジができたのだと思います。最初からふんだんにお客さまがいたら、それで満足して、D&S(デザイン&ストーリー)列車のような発想は出てこなかったかもしれません。

2004年に始まったD&S列車は、地域ごとのストーリーを大切にしてコンセプトをつくり、それをデザインに反映する方法でつくってきました。立ち上げからご一緒しているデザイナーの水戸岡鋭治さんは、本物志向が強く、手を抜くということがありません。

細部までこだわり抜いた「あそぼーい!」「SL人吉」といったD&S列車は次々と評判を呼び、われわれの自信につながりました。一連のチャレンジの究極系である、日本初のクルーズトレイン「ななつ星 in 九州」も、おかげさまで予約待ちの人気となっています。

この事業を通してわかったのは、中途半端は良くないということです。旧国鉄時代に始まった「ジョイフルトレイン」というイベント列車があります。分割民営化の後も各会社に引き継がれ、バブル時代には、団体旅行客向けの貸切列車としてよく使われていました。JR九州も持っていたのですが、多くの乗務員が必要で人件費がかさみ、採算が取れていませんでした。コンセプトもあいまいで、奇をてらった豪華さが目立っていました。

そこで、JR九州は思い切ってジョイフルトレインを全部やめた。そのうえで、九州新幹線の部分開業、全線開業にあわせて、路線そのものや観光地をゆっくり味わっていただきたい、そういう発想からD&S列車が登場しました。いまは全国に同様の観光列車が広まりつつありますが、やはりこれも、最初に手掛けた意味は大きかったと思います。

社員が誇りを失ってしまった旧国鉄時代から、民営化による再スタート、鉄道の立て直しと他分野への挑戦――。40年間、さまざまな場面を見て来た私にとって、今回の上場はまさに感無量です。

上場の鐘を鳴らすとき、新会社としてスタートしてから現場で起きた30年間のできごとが、走馬灯のようにばーっと頭をよぎって……。

一生懸命やってきてよかった。JR九州が30年かけてやってきたことは間違っていなかったと、深い喜びがわき上がってきました。