第7回 応仁の乱が転機? ピークへ至るまでの日本美術の流れ

日本美術のピークは浮世絵、とりわけ葛飾北斎にありというのが前回のお話。では改めて、ピークへ至るまでの日本美術の流れをおさらいしてみましょう。
日本では美術の守備範囲がかなり広い(何しろ茶器、つまり日用品がその中核を為したりしますから)ので、ここでは主に絵画のみを見ることとします。
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日本の絵画が本格化したきっかけは仏教

歴史の教科書でもおなじみの通り、日本美術の歴史はたいてい縄文時代から語り起こされます。炎が燃え上がるような火焔型(かえんがた)土器、宇宙人をかたどったのかと思わせる土偶などがすぐ思い浮かびますね。ただし、平面に図像を描く例はまだ見られません。
弥生時代になってようやく、銅鐸という祭祀用青銅器の表面に図柄が描かれるようになります。これが日本の平面表現、つまり絵画の始まりかもしれません。
その後、絵画表現が本格化するまでにはちょっと間があって、7世紀以降、つまり飛鳥時代以降からとなります。きっかけは、中国からの仏教伝来です。

当時の日本からすると、仏教は最先端の外来思想。これを受け入れるには、考え方や生活をガラリと変えねばなりませんでしたが、当時の人々は躊躇しませんでした。ちょうど明治維新によって西洋の文化文明を一挙に取り入れたように、いえおそらくはそれ以上の大変化を日本は経験します。

仏教国家となった日本では、文化も丸ごと中国からの輸入品を摂取します。数々の仏像が日本でもつくられるようになり、仏やその教えを題材にした仏画も盛んに描かれます。
そのうちのひとつ、8世紀に描かれた《吉祥天女画像》は優美な色合いがよく残っており、線描も繊細でため息が出ます。

これを超える絵なんて、その後の長い日本美術史を見渡してもはたしてあるかどうか。ことアートにおいては、時代を経るごとにものごとは発展していくという進歩史観など、まったく当てはまらないんじゃないかと痛感します。

かように日本全体が仏教文化の摂取に努めたのは、飛鳥〜奈良〜平安の各時代あたりということになります。吸収力の高さは、昔も今も変わらぬ日本の特長。仏教はすみやかに日本の生活や精神の隅々にまで入り込んでいきます。

仏教のエッセンスが理解し尽くされたあとに生まれた絵

日本文化は吸収力と同時に、応用力に秀でているのもまた確か。仏教のエッセンスを理解し尽くすと、今度は日本の風土や人の気質に合わせてどんどん変形させていくこととなります。

絵の世界でいえば、中国伝来の「漢画」と、もともとの日本の伝統に外来要素を溶け込ませた「やまと絵」、ふたつの系譜が同居するようになりました。
時代区分が「平安」から「鎌倉」へと移り変わる12世紀あたりになると、日本流の勢力が強まってきます。それをよく表すのは絵巻物ですね。
歴史上の事件をいわばドキュメンタリータッチで扱った《伴大納言絵巻》。おなじみの王朝文学を絵に仕立てた《源氏物語絵巻》。ウサギやカエルを擬人化する奇想天外な設定とユーモラスな絵柄で魅せる《鳥獣人物戯画》。このころに名作が続々と出ます。

絵巻物を通して、余白を巧みに活かす空間処理や、最小限の線で事物を表す描写など、日本の絵画特有の持ち味は磨かれていきます。それらが洗練の極みに達した表現は、現在のわたしたちが手にとる漫画の中に見られるんじゃないでしょうか。

鎌倉、室町時代の美術が影響を受けたのは「禅宗」

時は鎌倉時代に至りました。実権を握った北条氏は中国・宋と活発に交易をします。改めて中国文化がどんどん流入するのですが、美術分野で影響が大きかったのは禅宗の到来です。
禅宗は各地に広まっていきます。鎌倉幕府、それに続く室町幕府のどちらにも厚遇されました。質実剛健な思想が、武家の心性とぴったり合ったのでしょうね。

室町時代には、禅寺が中国文化の窓口のような存在になります。そこから書画、詩作、茶事、作庭などが武家、貴族、知識層へと浸透していきました。
のちに千利休によって大成される茶の湯、そこから派生した華道、龍安寺石庭に代表される枯山水の日本庭園、書道に水墨画。これら今も日本文化の粋と考えられているものは、どれも室町時代の禅寺が発端なのです。

絵画に絞れば、有力な禅寺の京都・相国寺から如拙、周文、雪舟ら、現在は国宝級とされる絵師たちが続々と輩出されました。

室町幕府は、15世紀後半の大きな戦乱たる応仁の乱を機に、瓦解へと向かいます。その後は戦国時代、そして天下統一を経て江戸時代となります。

応仁の乱を境として、日本美術は大きく変わった

応仁の乱の時代状況が日本美術へもたらした変化は、大きく分けてふたつ。武家の趣味の変容と、庶民文化の開花です。

応仁の乱以前、13世紀(鎌倉時代)に日本へ入ってきた禅は、ストイックで直観的、そして常に自然とともにあろうとする思想。これは日本の人々の心性にぴたりと合い、入ってくるやいなや大流行しました。また、華美を厭う禅宗においては、仏像や寺院を派手にすることは好まれませんでした。

しかし、応仁の乱を経て、戦国時代に大いに実戦を重ねた武家社会では、当然ながら強さや勇猛さに価値が置かれました。

武家の代表者たる信長・秀吉・家康ら天下人の欲求を満たしたのは、狩野派と呼ばれる絵師集団でした。狩野永徳が代表的ですが、彼らは金地の画面に濃い色で、単純なモチーフを大きく描きます。
狩野派の覇気にあふれた画風は、武家の身辺を華やかに飾りました。狩野派は江戸幕府の御用絵師となり、明治維新のころまで命脈を保ちます。

こうして応仁の乱のあとは、時の権力者たちが禅とは真逆の趣味を好むようになったため、仏教美術全体に勢いがなくなっていきました。
ただし禅とともに輸入されたさまざまな文化は、武家や貴族、市井の人々にも愛され育まれていき、仏教美術衰退の穴を埋めていくこととなります。

庶民がオリジナル美術を生み出した

応仁の乱のあとには堺、大坂、復興を目指す京都などで、商人が活躍するようにもなりました。都市部では経済が活発になり、町人文化が形成されていきます。扇面を描く店から出た俵屋宗達、青物問屋に生まれた伊藤若冲ら、市井の者が日本美術の中核を担うようになっていくのです。

庶民は美術を消費する側にも回りますよ。遊郭や芝居小屋に題材をとった版画を廉価で売る浮世絵が、江戸時代に大ブームとなります。
最初は墨一色だったものが、技術改良によって多色刷りの華麗な様相を呈します。「うきよ」という言葉は、もともと仏教的な厭世観を表す「憂き世」の字を当てていましたが、それがいつしか現世を楽しめという意に読める「浮き世」となりました。

応仁の乱以降の世は、下剋上が実現して天下人が現れ、江戸幕府の成立へと動いていきます。伝統よりも現在を肯定する風潮が広まったのは、無理からぬところでしょう。

こうして見てくると、日本美術は応仁の乱を境として、その性格を変えたことがわかります。乱以前は、舶来の仏教文化に強い影響を受けていた時代。乱以降は、市井の人間たちが主役となって日本独自の表現を展開する時代となりました。

飛鳥、奈良、平安、鎌倉、南北朝、室町、戦国、江戸、明治……。わたしたちが覚えている時代区分は、単なる政体の変化によってつけられたもの。美術を基準に考えれば、またまったく異なる時代区分法が現れるのですね。すなわち、応仁の乱までの仏教美術中心時代と、応仁の乱以降の日本オリジナル美術の時代。
歴史とは、すでに決まりきったものがどこかに存在しているのではない。そのつど創り上げるものだということを、日本の絵画の変遷が教えてくれます。

<今回のまとめ>
●7世紀に中国から仏教が伝来し、日本の美術は中国からの影響を大きく受けた
●その後、禅宗が大流行し、仏教美術中心時代となった
●応仁の乱以降は、市井の人たちによる日本オリジナル美術の時代となった